写真は、神宮前交差点(原宿ラフォーレ前)、向こう側ピンクの建物はZARA原宿店。明治通りを挟んだ隣のビルから撮った風景。
戦後ジャズ界の大スターだったドラマー白木秀雄氏は、女優・水谷八重子(当時は良重)さんとの離婚後しばらく、このすぐ近くに住んでいたそうだ。 白木秀雄氏のアルバムをこの数ヶ月、ヘビーローテーションで聞いている。
スウィングジャーナルで50年代~60年代にかけ、ドラマー部門とコンボ部門で10年連続ナンバーワン。
当時、日本大衆音楽でもっとも集客力があったのはジャズだった。その中の花形中の花形が彼だったのだ。
日本のジャズが、国際的には認められていなかった時代に、唯一世界トップレベルの実力を誇ったドラマーだ。
石原裕次郎を国民的スターダムに押し上げた1957年「嵐を呼ぶ男」ドラム合戦は、日本中に「ヤクザなドラマー」を産んだという。
石原裕次郎のドラムのアテレコを演り、サウンドトラックを担当したのが白木秀雄氏。
映画の翌年、松山市民会館での白木秀雄氏とジョージ川口氏とのドラム合戦の最中には、興業を仕切るヤクザが邪魔をする敵ヤクザを会場内で刺す殺人事件まで起きた。
よく勘違いしている方がいらっしゃるが、「嵐を呼ぶ男」ドラム合戦で裕次郎の相手ドラマー役を演じていたのは、白木氏ではなく、戦後日本を代表する男性ジャズ歌手だった笈田敏夫(ゲソ)さん。昔々僕が弾き語りをしていた六本木のビルには、ジャズライブハウスも入っていて、ビル入り口のところでよくお見かけした。笈田さんは、いつもダンディーな方だった。
白木秀雄氏が亡くなった時の、大きく報道された新聞記事を覚えている。
社会面に「敗残のドラマー 孤独の死」の大見出し。
離婚前後から薬物で身を持ち崩した彼は、坂を転げ落ちるように急速に衰え、睡眠薬過剰摂取なのか自死なのかよくわからない孤独死で亡くなった。
マスメディアの付けた「敗残のドラマー」というタイトルや記事内容は、彼の成し遂げたことを、汚してしまったのではないか。
死のニュースだけが語られ、プレーは何十年もの間忘れ去られてしまっていた。
2000年代後半になって欧州のDJが「白木秀雄」の盤を求めるようになり、再評価され、没後40年を経て世界中でリスペクトされるようになった。
彼のハードバップのアルバムを聞きながらドライブをしていると、見慣れた街の風景が「いつか見た映画の風景」に変わって見える。素晴らしい。
昨日3月17日は、僕のたいへん親しかった吉屋潤(キル・オギュン)さんの命日だった。
相倉久人さん著「至高の日本ジャズ全史(名著!)」に、吉屋潤さんと白木秀雄氏とはいっしょにバンドをやっていたことがあると書いてある。
彼らの最盛期のプレーに接した観客は、幸せだったと思う。