4月25日尾崎豊20回忌「核-CORE-」

今日は、尾崎豊の20回忌だ。

僕は尾崎と、直接のつながりは無いのだが、
一時期毎年、尾崎の命日には、
狭山湖畔霊園 にお参りに行っていた。

真夜中に誰もいないだろうと思って行ったら、
ワゴンでやってきているグループと、その知り合いたちが、
アコースティックギターで一晩中尾崎の曲を歌っていて、
尾崎を失ったその日から、止まってしまった時間を、
愛おしく抱きしめるかのように語り歌うその真摯さに胸を打たれたことがある。
ずいぶんと長いこと僕はその歌を聞いていた。
彼らは夜が明けると、「また来年ね」と言って別れて行ったが、
今も集まっているのだろうか?

尾崎の最後のマネージャーだった大楽さんと
大楽さんの車で行ったこともあったっけなあ。

19年前のちょうど今頃、尾崎の肉体は、悲鳴をあげていた。
僕は、尾崎の死は「事件」だったのだろうと考えているけれど、
それはちゃんとした証言が出てこないかぎり、ずっとこれからも推測のままだ。

尾崎ファンの何人かには話したことがあるが、
僕はあの日、朝まで、尾崎の元マネージャーだった鬼頭明嗣さんらといっしょにいた。
吉屋潤先生が赤坂TBSの近くでやっていた、
60坪の大箱の深夜ナイトクラブ「ハニール」のバンドで、
当時、僕はギターを弾いていた。
鬼頭さんは、先輩の方といらしゃっていて、
「ハニール」営業時間終了後、何人もで連れ立って六本木に行った。

尾崎は、当夜六本木から芝浦と移動し酒を浴びるほど飲んだので、
時間帯こそ、ほんのちょっと後になるが、鬼頭さんも同じ街で酒を飲んだわけだ。

詳しく書くと、
「尾崎豊 アイ・ラヴ・ユー尾崎豊との激走345日」という本に書かれたイメージを、
(尾崎のことではなく)傷つけてしまうので、
今日は書かない。それは今日の気分じゃない。

尾崎豊  核 -CORE- YUTAKA OZAKI

尾崎は87年、尾崎の人生の中でいちばん覚せい剤に侵されていた頃
「核(CORE)」という曲を完成させた。
元は「反核・反戦」がテーマの歌として書き始めたそうだが、
自分の心の「CORE」=「愛」以外では満たされない孤独
と向き合った曲としてリリースされた。

反戦・反核 いったい何が出来るというの 小さな叫びが 聞こえないこの街で

1987年の尾崎にとっては、「反戦・反核」よりも、
自分の体と心を蝕んでゆく覚せい剤のもたらす、絶望的な孤独のほうが大きな問題だったのだ。

しかし、もし今、尾崎「福島」の現実を見たら、何と歌っただろう?

バブルに入る頃、国交もないソ連で起きたことゆえ、
現実がはっきりとは見えてこなかった86年~チェルノブイリ「核」のもたらす
「ぼんやりとした不安」ではなく、2011年日本に起きたことは、今そこにある「恐怖」、そこにある「危機」だ。

スポンサーや大マスメディアに干されるのを恐れてのことだろう。
メジャー・アーティストたちが、「核(Nuclear)」に対してちっともプロテストしない現在の状況を、
天国の尾崎はどう思うのだろうか?

 

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